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「徒然草」の自分勝手な現代語訳(意訳)を中心に、ときどき自分の日常もつれづれます。

この嘲弄の上に乗ってふわふわと高い瞑想の領分に上って行くのが自分には大変な愉快になった。 硝子戸の中(夏目漱石)

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2012/02/27

【徒然草】 第十四段

和歌より面白いものなんて、なかなかないと思う。
身分が低い木こり、狩人でも歌に詠まれれば味がでて、
本物は恐いイノシシだって「ふす猪の床」(ふすヰのとこ)
と詠まれれば、優美さまで漂ってきそう。

とは言え、最近の和歌といえば
部分的には何とか面白みがあっても、なぜか古い歌のようには
言葉の間に“心”を感じることはない。

紀貫之が
「糸による ものならなくに 別れ路の 心細くも 思ほゆるかな」
と詠んだ歌は、
古今和歌集の中では「歌屑」なんて低評価が定説になってるけど
今の歌人にはとても真似できないレベル。
当時のスタイルや言葉なんて、似たものがたくさんあるのに
この歌に限ってとやかく言われるのは、まったくわけがわからない。
また、源氏物語には
「糸による “ものとはなしに” 別れ路の 心細くも 思ほゆるかな」
って引用がある。

新古今和歌集では
「冬の来て 山もあらはに 木の葉降り 残る松さへ 峰に寂しき」
(祝部成茂)
って歌が批評されて、
まぁ確かに少しくだけ過ぎた感じはするけれど、
この歌も衆議判ではかなり評価されていたし、
歌に感じ入った後鳥羽院が御教書(下文)を下されたと
「源家長日記」に書いてあった。

『和歌の道だけは昔と変わることはない』
なんて聞くけど実際はどうなんだろう。
今でも詠まれる同じ言葉や歌枕も、昔の人が詠んだものは、
シンプルで穏やか、佇まいは清らかで、感動も深くみえる。

梁塵秘抄の流行歌にも深く心に響く言葉が結構あるし、
昔の人ならなにげなく口にした言葉でも
すべて素晴らしく聞こえてくるみたいで。

【 原文 】
和歌こそ なほをかしきものなれ
あやしのしづ山がつのしわざも
言ひ出でつればおもしろく
おそろしき猪のししも
「ふす猪の床」と言へばやさしくなりぬ

この比の歌は一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど
古き歌どものやうに いかにぞや ことばの外に
あはれにけしき覚ゆるはなし

貫之が「糸による物ならなくに」といへるは
古今集の中の歌屑とかや言ひ伝へたれど
今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず
その世の歌には姿ことばこのたぐひのみ多し
この歌に限りてかく言いたてられたるも知り難し
源氏物語には「物とはなしに」とぞ書ける

新古今には「残る松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞ
いふなるは まことに少しくだけたる姿にもや見ゆらん
されどこの歌も衆議判の時よろしきよし沙汰ありて
後にもことさらに感じ仰せ下されけるよし家長が日記には書けり

歌の道のみいにしへに変らぬなどいふ事もあれどいさや
今も詠みあへる同じ詞歌枕も 昔の人の詠めるは
さらに 同じものにあらず  やすくすなほにして
姿もきよげにあはれも深く見ゆ

梁塵秘抄の郢曲(えいきよく)の言葉こそ
またあはれなる事は多かんめれ
昔の人は たゞいかに言ひ捨てたることぐさも
みな いみじく聞ゆるにや

<所感>
兼好さんは、二条為世門下の和歌四天王の一人だったようです。
(頓阿・慶運・浄弁・兼好)
プロレスの話に例えたら
「昔のレスラーはヘッドロックだけで客を沸かせたんだぜ」
みたいな感覚かもしれませんね。

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