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「徒然草」の自分勝手な現代語訳(意訳)を中心に、ときどき自分の日常もつれづれます。

この嘲弄の上に乗ってふわふわと高い瞑想の領分に上って行くのが自分には大変な愉快になった。 硝子戸の中(夏目漱石)

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2012/02/06

【徒然草】 第十二段

こころをピタリ、重ね合わせるように語り合って、
笑い合ったり、しんみりすることも
包み隠さず話せるのなら
胸がすくような気持ちにもなれるのだろうけれど...
実際、そんな相手はいるはずもなく、
会話のリズムを壊さないように気を使って
対座するのは、ひとりきりでいるより
余計、寂しい気分になってしまう。
お互いまっすぐに言いたいことを「そうそう」と
頷きながら聞いて、時には意見が違っても
「俺の考えは違うね」なんて言葉をぶつけたりして
「だから、これはこうなんだよ」なんて
深く語り合えば、どんな愁いも晴れそうだけど。
ちょっと不平を話す時でさえ、
自分と心が違う人はどこか合わず、
世間話くらいならよくても “心の友” とは呼べず、
向かい合っていても遠く離れている感覚を
わびしさと言うんだろうか。

【 原文 】
同じ心ならん人としめやかに物語して
をかしき事も世のはかなき事も
うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに
さる人あるまじければ
つゆ違はざらんと向ひゐたらんは
ただひとりある心地やせん
たがひに言はんほどの事をば
げに と聞くかひあるものから
いささか 違ふ所もあらん人こそ
我はさやは思ふなど争ひ憎み
さるから さぞ ともうち語らはば
つれづれ慰まめと思へど
げには少しかこつ方も我と等しからざらん人は
大方のよしなし事言はんほどこそあらめ
まめやかの心の友には
はるかに隔たる所のありぬべきぞわびしきや

※かこつ方・・・嘆きを口にする様子

<所感>
杉浦日向子さんは江戸の「粋」について
『諦観(ていかん)は江戸の「粋」の三本柱の一つになっている。
後二つの柱はあだと色です。』(思想の科学/1993年)

と書かれていたけど、
江戸時代に徒然草が人気が出たのは、
こんなところにも共感があったのかもしれませんね。

2 件のコメント:

  1. 予備知識なしにt.matsuuraさんの訳文だけを読むと、
    まるで現代人の心境告白のようですね。
    今、ルソーを読んでるんですが、
    この方も、コミュニケーションが不得手だったみたいで。
    ものを書く動機には、
    (もちろん例外もあるでしょうけれど)
    孤独とか、コミュニケーションの不全感が、
    大きく関わってるのかなー、と思いました。

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  2. to:マツさん

    ものを書く動機は人それぞれで
    社交的な人もたくさんいると思いますが、
    僕はどちらかと言えば
    コミュニケーションが不得手側の人の
    文章に惹かれてしまいます。
    コミュニケーションの不全感がなければ、
    何かを書いたりはしないのかもしれませんね。

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