こころをピタリ、重ね合わせるように語り合って、
笑い合ったり、しんみりすることも
包み隠さず話せるのなら
胸がすくような気持ちにもなれるのだろうけれど...
実際、そんな相手はいるはずもなく、
会話のリズムを壊さないように気を使って
対座するのは、ひとりきりでいるより
余計、寂しい気分になってしまう。
お互いまっすぐに言いたいことを「そうそう」と
頷きながら聞いて、時には意見が違っても
「俺の考えは違うね」なんて言葉をぶつけたりして
「だから、これはこうなんだよ」なんて
深く語り合えば、どんな愁いも晴れそうだけど。
ちょっと不平を話す時でさえ、
自分と心が違う人はどこか合わず、
世間話くらいならよくても “心の友” とは呼べず、
向かい合っていても遠く離れている感覚を
わびしさと言うんだろうか。
【 原文 】
同じ心ならん人としめやかに物語して
をかしき事も世のはかなき事も
うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに
さる人あるまじければ
つゆ違はざらんと向ひゐたらんは
ただひとりある心地やせん
たがひに言はんほどの事をば
げに と聞くかひあるものから
いささか 違ふ所もあらん人こそ
我はさやは思ふなど争ひ憎み
さるから さぞ ともうち語らはば
つれづれ慰まめと思へど
げには少しかこつ方も我と等しからざらん人は
大方のよしなし事言はんほどこそあらめ
まめやかの心の友には
はるかに隔たる所のありぬべきぞわびしきや
※かこつ方・・・嘆きを口にする様子
<所感>
杉浦日向子さんは江戸の「粋」について
『諦観(ていかん)は江戸の「粋」の三本柱の一つになっている。
後二つの柱はあだと色です。』(思想の科学/1993年)
と書かれていたけど、
江戸時代に徒然草が人気が出たのは、
こんなところにも共感があったのかもしれませんね。
予備知識なしにt.matsuuraさんの訳文だけを読むと、
返信削除まるで現代人の心境告白のようですね。
今、ルソーを読んでるんですが、
この方も、コミュニケーションが不得手だったみたいで。
ものを書く動機には、
(もちろん例外もあるでしょうけれど)
孤独とか、コミュニケーションの不全感が、
大きく関わってるのかなー、と思いました。
to:マツさん
返信削除ものを書く動機は人それぞれで
社交的な人もたくさんいると思いますが、
僕はどちらかと言えば
コミュニケーションが不得手側の人の
文章に惹かれてしまいます。
コミュニケーションの不全感がなければ、
何かを書いたりはしないのかもしれませんね。